日本における自転車

最近は日本でもママチャリ以外の自転車を見るようになったとは言え、まだまだ「実用車」としての自転車が大勢を占めている。
現在の日本では、東アジアからの安価な労働力の提供により、極端に廉価な自転車が存在する。一台八千円を切るものもざらだ。
しかしその性能には疑問符がついてしまう。社団法人自転車協会によって安全基準、BAAが提唱されてはいるが、それによる法的拘束力はない。欧州では安全基準(CE規格)をクリアしないと販売が許可されないようになっているのに、だ。
これは自転車の生活における位置付けとも関わってくる問題で、たいていの人たちが自転車走行を歩行の延長と考えてしまっているために起こっている問題だと思う。
自転車が車両であるのは道交法にも定義されている通り(道交法第二条、八及び十一)明白な事実であり、道交法の目的(第一条:道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図り、及び道路の交通に起因する障害の防止に資すること)を達成するためには整備不良、その他安全のための性能欠如はあってはならないことである。


 では、日本における自転車はなぜ「ママチャリ文化」になってしまったのだろうか。
 日本の自転車の普及の根底には「岡持ちと警邏、そして新聞配達」があると考える。いづれも現在まで見られる使われ方で、それらは全て近距離を巡回する使用方法である。長距離を移動する手段としての自転車ではない。
 そういった使用方法に適合した自転車は、乗降、駐輪が容易で、積載能力も重視される。当然軽量化などは二の次になる。また、故障しても自転車の拠点からはそう離れることはないので、高度な耐久性が求められることもない。その究極の姿?がママチャリなのだろう。
 だが、実は長距離を移動するような自転車が日本にもあった。それは「銀輪部隊」と呼ばれた旧日本軍の自転車である。しかしそれも軍によって高度に改造されたわけでなく、特に長距離走行に適した姿になることはなかった。
 そして日本の敗戦とともに長距離移動手段としての自転車も「旧体制」のものとなり、再び日の目を見ることがなくなる。。。

 再び長距離走行に適した自転車が日本に登場するのは、60〜70年代にヨーロッパからの輸入自転車が入ってくるようになってからである。
 ランドナースポルティーフが輸入され、パスハンティングという言葉が生まれる。しかしそれはスポーツとしての自転車、いわゆるスポーツサイクルという位置付けであり、実用車とは一線を画していた。


 しかし現在、MTBブームを経てロードレーサーが流行している。街中で普通にロードを見ることが多くなり、スポーツサイクルと実用車の垣根は低くなった。(そのあいのこのような自転車が生まれていることでなく、同じ「自転車」という括りで見られている、ということ。)
 また、自分だけの個性的な自転車を求める人たちが増え、ブロンプトンやモールトンのヒットにつながっている。

とりとめがないが、この辺で。また書くかも知れない。