ツァイダム盆地より。
何もない荒野。天候が荒れると、ひどいことになる。
風速30m/sはあろうかという、砂嵐。6時間で、40キロも進めなかった。
ぽつんと立つドライブインで休憩し、中国人と筆談を始める。
白酒をすすりながら読めない字を書く、声の大きな中国人。
冷静で教養がありそうながらも、歴史問題に触れたがる中国人。
そんな彼らが言うままに、次の町までタクシーに乗せられてしまった。
宿に、着きたかった。町が、恋しかった。
まだまだ未熟な自分は、自然に立ち向かう勇気がなかった。
たった40キロ弱。轍を途切れさせてしまう。
夜、悔しくて、歯を食いしばった。
その翌日。空はこれ以上ない青。
前に進め、と背中を押してくれた。
青蔵鉄道(チベット高原鉄道)が走る横を、少しの向かい風を受けて、進む。
そして90キロの無人地帯を抜け到着した町は、目前に荒々しい山々が聳える町、デリンハ。
チベット族とモンゴル族の自治州だけあり、看板などの表記は三言語でなされる。
ここはまだ開発中の町。巨大工場を誘致し、その工員たちの団地が連立する。
そして、少し古い漢人の囲み式住居も散在する。
ひょっとして、再度入植キャンペーンを張っているのだろうか。
2800mの高地。冬の寒さは半端ではないだろう。漢人も逃げ出すのだろうか。
さらに奥地へと。軍事上の理由で正確な地図は公開されてない中国では、地形が読めない。
川の流れなどから、憶測するしかない。
何もない荒野だと思ったら、3700mの峠があった。
そして夜9時。日没を迎えるが、あるはずの町が見当たらない。
テントが張れそうな場所を見つけたら、民家が一軒建っていた。
「テントを張りたい」
中国人は、快く許可してくれた。
初めての野営は、標高3400m。
寝ようとしているのに、その中国人と生活を共にする男らがやってきて、
「水はいらないか。饅頭はいらないか。」
と声をかけ、テントの中を覗こうとする。
「ダメだ!いらない!」
と跳ね除ける。
翌朝、気温は2度を下回った。
青蔵高原は、インド亜大陸のユーラシアへの衝突によって生まれた高地である。
かつて海だったこの場所は、塩を産する。
遠くに白い湖が見えるだろうか。塩湖である。
やがて敦煌まで300キロ強の町、大柴旦が見えてきた。